<ガイドブックに載っていない島案内>
〜ジョン万次郎の遺産が根付く〜

                                                                        150219更新
                                                         マルベリー

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ガイドブックに載っていない島案内Bに投稿した文章です。

トップレポート>ジョン万次郎


 
 現在、小笠原諸島では父島・母島の二島に2500人ほどの島民が暮らしている。
父島は東京からは
1000qほど南にある。母島は父島からさらに50qほど南にある。
江戸時代には人が住んでいない無人島として、無人(むにん)島と呼ばれていた。
しかし
1830年にはハワイから白人と現地人がやってきて定住を開始した。
日本人の移住となると
1876年以降である。
まだ人が住み始めてわずか
180年ほどしか経っていない歴史の新しい島である。

 短い歴史の間に島を訪れた有名人物の中からジョン万次郎(中濱万次郎)について取り上げてみたい。

ジョン万次郎は、若いころ漁師として乗っていた漁船が漂流したのち、鳥島にたどり着いた。
そこにアメリカの捕鯨船が通りかかり、生きのびていた
5人を見つけ、ハワイまで連れて行った。
4
人はそこで船を降りたが、ジョン万次郎だけがさらにアメリカまで渡った。
数年、アメリカで暮らしたのち、捕鯨船に乗り込んで経験を積んだりしたのち、日本に戻ってきた。
その後、幕府が咸臨丸をアメリカに派遣したときには、通訳として訪米した。
ここまでは比較的有名な話である。

しかし、ジョン万次郎は小笠原近辺に5度も訪れていることはほとんど知られていない。

まず初回は、弘化4年(1847年)、アメリカからの捕鯨船に乗り込んでいた時である。
その捕鯨船は航海の途中、父島に
10日間寄港している。
そのときはまだ外国から移住の外国人たちだけの島であった。その捕鯨船はのちアメリカに戻った。
ジョン万次郎もである。

2度目は安政6年(1859年)、幕府の許可を受けた船で小笠原近海に試験捕鯨に向かった。
ただし嵐に遭遇し引き返したため、島には上陸はしていない。

3度目は文久元年(1862年)、幕府の探検隊が開拓のため咸臨丸で来航したときに、
外国系島民との通訳として訪れている。
滞在期間は約
3か月ほどであった。
このとき、先の捕鯨船で来島した際に会っていたナサニエル・セーボレーと再会している。

4度目は文久3年(1863年)、また捕鯨のために来島した。この時は父島で水夫を雇い、小笠原近海でマッコウクジラを2頭しとめている。小笠原での滞在は4か月ほどであった。

最後の5度目は明治21年(1888年)、わずかな航海記録の断片しかないが、
小笠原近海にいたことが残っている。
やはりこの航海も捕鯨であったようだ。

合計5度の小笠原近海への航海のうち、4度は捕鯨がらみである。
そのうち
3度は父島に上陸もしている。
小笠原は今でもザトウクジラやマッコウクジラのウォッチングが盛んな島であることは言うまでもない。

ジョン万次郎の捕鯨への思いは引き継がれ、戦前・戦後を通して小笠原は捕鯨の基地となっていた。
捕鯨をやめてからはザトウクジラやマッコウクジラのウォッチングが盛んな島となっている。

現在、小笠原には彼の足跡を示すようなものは何もない。
ただ、文久元年(
1862年)に幕府が小笠原開拓の際に建立した、
「漂流者冥福碑」および「小笠原新治碑」は現存している。

江戸時代末期、日米の懸け橋として貢献したジョン万次郎。
小笠原においては幕府の探検隊としての来島がまさにそうであった。
戦前、日本でも稀有な外国系と日本系の移住者がともに暮らしていた島。それは今も父島では続いている。
そういう経緯もあるためか、小笠原は移住者を受け入れやすい気風があるように思う。

最後に、小笠原までアクセスについてであるが、船による航路のみである。
定期船は
7000t弱の「おがさわら丸」のみが就航している。
運航は
6-7日に1度の頻度で、東京・竹芝桟橋から父島に向けて出港する。航海時間は25時間半である。
父島からさらに
50qほど南にある母島へは、さらに定期船「ははじま丸」で2時間10分ほどかかる。
小笠原に来ようと思ったら、
56日の日程を確保する必要がある。その日程で当地には3泊できる。

                                                               以上。
補足:
 調査不足のため、万次郎がアメリカにわたるハウランド号での軌跡について見落としありました。
ハウランド号は万次郎たちを救出し、ハワイに立ち寄りの後、再度、日本近海で捕鯨しています。
そしてその間、航海日誌などによると、ハウランド号は1842-5-27父島二見港に入り、
食料を調達しています。
したがって、万次郎の初来島はこの時ということになります。

結論:初来島1842-5-27 小笠原近海への航海6回となります。



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